先日、娘と一緒に遠方に住んでいた祖母のお葬式に参列しました。祖母は長寿を全うし、穏やかに旅立ったようです。まさに「大往生」。お葬式の場は悲しみに包まれてはいたものの、「よく生きたね」「立派だったね」ーそんな言葉が多く交わされる、どこか温かさのあるお葬式でした。
覚えていないひいおばあちゃんを想像する
娘にとっては「ひいおばあちゃん」。赤ちゃんの頃に一度だけ抱っこしてもらったことがあるのですが、本人は当然覚えていません。それでも、まわりの大人たちが「おばあちゃんは世話好きだったね」「優しい人だったね」と話すのを聞きながら、何か考えているようでした。きっと覚えていない「ひいおばあちゃん」の姿を想像していたんだと思います。言葉だけでは実感が湧かないかもしれないけれど、きっと娘の心の中に、優しい曽祖母のイメージが生まれたのではないでしょうか。
葬式って不思議
お葬式には、たくさんの親戚が集まっていました。私にとっても久しぶりに顔を合わせる人ばかりか、これまでに会ったことのなかった親戚もいました。遠方に住んでいるため、普段はほとんど会うことのない親戚たち。それでも、お葬式という場になると集まり、故人を偲ぶーその不思議な感覚を娘も感じ取っていたのかもしれません。
「バイバイ」ってレベルのお別れじゃないんだけどね
最後のお別れのとき、みんなで棺の中に花を手向けました。娘もそっと花を置き、最後に小さく「バイバイ」と言いました。
その時、ぽつりと一言。
「バイバイ」ってレベルのお別れじゃないんだけどね
その言葉を聞いたとき、私は思わず胸が詰まりました。
娘はもう会えないことをわかっていました。でも、ほかにどんな言葉をかければいいのかわからなかったのかもしれません。いつも言い慣れた「バイバイ」を口にして、それがしっくりこないことに自分で気づいた。
その気づきこそが、娘なりの「死」への理解だったのだと思います。
6ページの家系図——「これ全部親戚なの?」
お葬式の後、喪主である私の叔父から家系図のコピーをもらいました。なんと6ページにもわたる長い家系図。
娘はそれを見て驚いた様子で「これ全部親戚なの?」と聞いてきました。
そう、これが「家族のつながり」です。お葬式で初めて会った人たちも、みんな血のつながった親戚でした。日常では意識することはありませんが、こうして家系図を目の当たりにすると、自分がどんなつながりの中にいるのかがはっきりとわかります。
私自身も、普段はほとんど会わない親戚たちばかりでした。幼い頃は法事やお正月に集まることもありましたが、大人になってからはすっかり疎遠になっていました。それでも、お葬式という場になると、みんなが集まり、同じ故人を偲ぶ。その不思議なつながりを、娘と一緒に感じた時間でした。
「バイバイ」じゃないお別れ
今回のお葬式で、娘は「死」について深く考えるきっかけを得たように思います。
- もう二度と会えないという事実。
- たくさんの人が集まり、故人を偲ぶという儀式。
- 自分の知らなかった親戚とのつながり。
娘はそのすべてを静かに受け止め、自分の言葉で表現しました。
「バイバイのレベルじゃない」——。
それは、娘にとってのお葬式の答えだったのかもしれません。
お葬式は悲しい時間でもありますが、亡くなった人が残してくれた「家族のつながり」に気づかせてくれる場でもあります。今回の経験が、娘の中でどんな形で残るのかはわかりません。でも、いつかふと家系図を思い出したとき、「家族ってつながっているんだな」と感じてくれたらいいなと思います。
そして、私自身も改めて考えました。普段会わない親戚たちとのつながりを、これからどうしていくのか。人生の中で出会う機会は限られています。だからこそ、たとえ年に一度でも、こうしたつながりを大切にしていきたい—そんなことを思いながら、お葬式をあとにしました。